映画『はじまりへの旅』ヴィゴ家の森の生活はスパルタ式。ネタバレ、詳細レビュー。観る前に読んでおきたい書物リスト付き。 / by abou el fida

はじまりへの旅

 IMDb 7.9・IN MOVIES 8.1・「はじまりへの旅」原題:Captain Fantastic・2017年4月1日(日)日本公開

冒頭シーン

冒頭のシーンはこの映画の踏み絵的な役割があります。
のどかで美しい自然の中で可愛い鹿が一頭。そんな風景を一瞬にして血塗られた惨殺シーンに変えるのは人間、この映画の主人公家族の狩猟です。生命へのリスペクトを込めて、まずは心臓を生のまま食らう。そして古来からの食物連鎖に従い、切実に必要な食料として仕留めた獲物に対して、祈りと感謝を捧げます。生命の尊さを知っている者の行動、自然の掟、延々と営まれてきた動物界の真実です。
バンビが可哀想と思った方、なんでこんなシーンが必要なのかと思った方もいるでしょう。動物の肉は、我々が日頃食しているものではありますが、消費活動には不要なイメージとして血なまぐささは巧妙に隠されています。これがこの映画のテイストであり、冒頭のシーンで大上段に説明している訳です。もしもこの時点で拒否反応が出たらこの映画「はじまりへの旅」はあなたの好みに合わないかもしれません。

はじまりへの旅

森の生活

アメリカ的な消費産業を嫌悪し、より自然に還るべく、森の生活を追求する父と子の7人家族。彼等が崇拝するのはカルロス・カスタネダやヘンリーDソローではなく、ノーム・チョムスキー。隠遁者達やヒッピーの様な悦楽主義ではなく、勤勉で自分を鍛える事を怠らない、どちらかというとアナーキスト精神です。

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ホームスクール

ホームスクールとは、公の学校に行かず、個人の裁量で子供を教育すること。人種、宗教、習慣が様々なアメリカでは決して珍しくなく、ホームスクールとしての認可制度もあります。部族や宗教的な理由の場合もありますが、社会の様々な悪影響から我が子を遠ざけ、親自ら、全てを教える事を選ぶ人がいるのも不思議ではありません。

「はじまりへの旅」では父と子の自給自足、森の中のホームスクールです。社会学、哲学、複数言語の知識とそれを活用出来る知的能力、サバイバルの知識と身体能力。1日の終わりには焚き火の元で読書に耽り、音楽の情操教育は実演の参加型。自然との共存。意見があれば徹底的に自分の言葉で話すのが鉄則。自分で考え、発言する習慣づけは実際の子育てにも大変参考になるのではないかと思います。

見方によってはスパルタとも感じます。しかし、子供たちは父親を尊敬しており、アスリートの選手とコーチのような繋がりにも見えます。ぬるま湯のような日々にどっぷり浸かっている我々が、実際にそんな生活を選べるかはおいといて、親へのリスペクトと張りのある日々の暮らしは充実していて羨ましくも映ります。

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水汲み係のスケジュール表:ポルポト主義の三女ZAJA(サージ)だけ週に2回です。

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唯一の弱点、「隔離」

しかし、隔離された環境下で、長(おさ)の思想が全て正しいという世界の中だけでは、他の人々との触れ合い、社会経験が欠除します。これは森の中であろうと、都会であろうと同様で、宗教組織との共通点も無視できません。
閉ざされた環境の中では普通だった人々が、下山すると自分達がモンスターになっていたことに気が付く、、、これもこの映画の興味深いところです。この物語では最終的にバランスの良い折衷案を選択しますが、普通だと思っていた価値観が他者にとっては普通ではないことから生まれる軋轢は、身近な人間関係だけに留まらず、国際的な宗教問題(つまり戦争)にまで発展するほどの根源的な問題なのです。


この映画が語ること

普通とは何なのかという問題意識をもち、既存の価値観や固定観念にとらわれないことや、アメリカを中心とした資本主義、消費主義に対する批判は「はじまりへの旅」が語る大切なメッセージではありますが、主軸はあくまでも悩める父の物語です。

妻を亡くし、更に子育てが間違っていた事を突きつけられるという二重苦に遭う父親。しかも子供が6人もいます。
人生を長く生きてきた者にとって、おそらく一番難しいのは自分の生き方が間違っていた事を認める事かもしれません。博識で逞しい父親であればなおさらです。全人生を覆すような苦悩を受けるヴィゴ・モーテンセン。子供たちに完璧だと思われていた父が、完璧ではない事を認める潔さ。人間の弱さを見せる事、そのカタルシスもこの映画の大きな魅力です。崇拝心から懐疑心に変わっていった子供たちの心は、その時、家族愛に変わり、人間としても大きく成長していくのです。

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スティーヴとのロードムービー

家族が移動するキャンピングカー、(快適に生活できる様に改造されたバス)には「スティーヴ」という名前が付いています。スティーヴとともに一家が遭遇する様々な出来事を辿って行くさまは、ロードムービーそのものです。ヴィム・ヴェンダースの「パリテキサス」でも登場する立体ジャンクションを通り過ぎるのを見逃さないでください。最後にたどり着く場所が一体どんな所で、どんなメンバーなのか、スティーヴの行く末は見てのお楽しみですが、その過程で出逢う警官、従姉妹、義理父、家族ぐるみの万引きや墓荒らしなど、どれも楽しいエピソードばかりです。

注目すべきなのは、この映画には腕力での喧嘩、拳闘シーンがないこと。肉体的にも充分に鍛えられた子供たちが下山するわけですが、腕力の強さで安易に勝敗を描くことなく、普通の街の普通の人々との価値観の相違を描くことに焦点を絞った脚本は非常に評価に値します。

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映画のタイトル

この映画のオリジナル・タイトル「Captain Fantastic」は、妻の幻影のセリフで語られる「My fantastic man、、、」と、バスの中でヴィゴが言う「This is your Captain speaking」からです。エルトン・ジョンのアルバム「Captain Fantastic」とは偶然の一致でしょうか。

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メタファーなど

映画らしいメタファーがいくつかあります。

  • ロッククライミングは心の叫びを押さえる為の苦行です。次男のレリアンが手に怪我を負ったのは、その苦行を受け入れられず、心も傷つくというメタファーです。
  • 水や雨のシーンは心の涙のメタファーです。
    • 母の死の直後、ロッククライミングで頂上に達しても達成感は皆無。皆、ただひたすら大雨に打たれ続けます。
    • スティーヴで移動中、皆が母を恋しく思うシーン。外はもの悲しい雨模様です。
    • 父は妻の死を知った後、独り激しい滝に打たれます。きっと泣き叫んでいる事でしょう。一番辛い者の怒涛の涙のメタファーです。
  • 時々現れる妻の声は、夫(=父親)のみに語られます。つまり父親の心の中、無意識の願望、父親自身の声なのです。
  • 父と長男が髭を剃ったり、断髪したりします。今までの自分を変える決意のメタファーです。まずは外見から変えてみよう。というわかりやすい行為ですね。
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キーワードなど

父と子達の合い言葉

Power to the people / パワー・トゥ・ザ・ピープル

ジョン・レノン1971年のシングル曲のタイトル。「革命を起こせ」、「人々に力を」そして実際に行動を起こせ。という内容。資本家・権力者に搾取・支配される労働者階級に対するメッセージです。

Stick to the man / スティック・トゥ・ザ・マン

The Manには「大物」とか「権力者」という意味があり、権力や体制に反抗するという意味の言葉です。この映画では既存の価値観や固定観念の打破という意味も含まれます。

 

ノーム・チョムスキー

主にアメリカ社会に対し、常識と思われている事柄に鋭いメスを入れる知識人。この映画のコンセプトに相応しい人物です。(ウディ・アレンではありません)
日常に追われ、ついつい近視眼的になって常識を疑わなくなり、巨大な力の存在に知らず知らずに従っている我々に警告を鳴らす、本物のアナキスト。いくつかの映画も作られていますが、2016年に公開された彼のインタビュー映画「Requiem for the American Dream」(本ページ執筆時日本未公開)は必見です。

チョムスキーには膨大な著書、関連書がありますが、まず入口としてはこちらをおすすめします。

この映画ではノーム・チョムスキーの誕生日(12月7日)を家族の祝日と決め、子供達にプレゼントを振る舞うという、もうなんだかよくわからないお祝い事をしています。しかしこれももちろん固定観念へのメスで、カレンダーに予め記され、与えられ、疑いもなく享受される決まった祝日に対するアンチテーゼです。

 

エスペラント語

姉妹がスティーブで喋っていたのはエスペラント語です。言葉が異なっていても全世界すべての人が話し合える様になるための共通の第2言語、国際補助語として作られた言語です。
実は、知らないうちに我々の身の回りでもエスペラント語由来の言葉が使われています。例えば乳酸菌飲料「ヤクルト」という名称、芥川龍之介の「蜃気楼」、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」や、ドラえもんの映画でも使われているそうです。実際に有用かは別として、国境、歴史、文化、宗教に左右されない、新たな価値観の象徴と言えます。

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お葬式

2種類の葬式が行われます。最初はゴルフ場の真ん中の教会で、残された者の、自分達の悲しみを確認し合うための葬式。故人を悼む気持ちは美しいのですが、それはお葬式という儀式の固定観念に囚われ、故人の望みを無視するほどに切実で、つまり身勝手です。
もう一つは山での火葬。故人が本当に望んでいたお葬式であり、生物サイクルの一部として、死はその過程での新たなレベルに過ぎないという認識。一種の祝福の儀式です。残された者はもちろん悲しいのですが、故人を理解するが故に現れる笑みが清々しい。もちろん、これは既存の宗教観、価値観からの解放を表現しています。

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映画のテーマにリンクする書物たち

ヴィゴが子供たちに読ませている本は、どれも固定観念に囚われることなく常識にメスを入れる類いの内容で、この映画の内容ともしっかりリンクしています。控えめながらも本の著者とタイトルがしっかりと写されており、監督のこだわりが感じられます。

ジョージエリオット

「ミドルマーチ」

焚き火のシーンで三女のサージが読んでいたのがこの本。1872年作品。複雑な人間模様と人間の本性にメスを入れる大作。イギリス小説100選で第1位に選ばれた名作です。

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ジャレド・ダイヤモンド

「銃、病原菌、鉄」 (1977)

長女キーラーが読んでいた本。人類の文明の発展は、ヨーロッパ人の遺伝子が優秀だからではないと主張し、13000年にわたる人類史の固定観念にメスを入れます。アマゾンのレビューが賛否白熱しているようですが、それはつまり本書が問題作である証拠です。

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ブライアン・グリーン

「宇宙を織りなすもの―時間と空間の正体―」(2004)

キーラーとは二卵性双生児のヴェスパーが読んでいた本。ブライアン・グリーンはひも理論で『エレガントな宇宙』が世界的なベストセラーになりました。それに続く作品がこれで、物理学の視点から時間、空間、宇宙の固定観念にメスを入れる内容です。

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ドストエフスキー

「カラマーゾフの兄弟」

反抗期の次男のレリアンが読んでいるのは「カラマーゾフの兄弟」。人間にとって救いの役割を担う「神」にさえメスを入れる物語。好き嫌いは別として、読んでるかいないかで人生が変わるかもしれないほどの重要な文学作品。新潮文庫、原卓也氏の翻訳は読み易く好評です。

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ウラジーミル・ナボコフ

「ロリータ」

ヴェスパーがバスの中で読んでいたのが「ロリータ」。ロリコンという言葉はロリータ・コンプレックスの略で、この本の題名が発祥です。小説の内容は、大枠をヴェスパーが上手く説明してくれています。読み進めるうちに異常心理を異常と思えなくなる怖さ。普通とは何かという問いにも関係します。評価に賛否あること自体に文学の一つの価値があるとすれば、この本はその代表とも言えるでしょう。

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クライブ・カッスラー

オレゴンファイルシリーズの「南極の中国艦を破壊せよ!  / The Silent Sea, (2010) 」

山中の住居テントの本棚に飾ってありました。レイズザタイタニック(1980)や、マシュー・マコノヒーのサハラ(2005)の原作者としても有名です。難しい本ばかりでなく、心躍る冒険小説が置いてあるのも好印象。もしかしたら父親の愛読書かもしれませんね。

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音楽について

オリジナル・サントラ

シガーロス

VARÖELDUR/ シガーロス
2012年リーリースのアルバム「Valtari(ヴァルタリ)」 (2012) に収録されています。シガー・ロスはビヨークとともに世界的に有名なアイスランド発のバンド。独自の世界観は聴く人を選ぶことと思いますが、前向きなメッセージが伝わる美しいメロディの曲で、この映画との相性はとても良いです。

尚、この映画の監督、脚本はマット・ロス、音楽は兄弟のカーク・ロス、この曲はシガーロス。ロス繋がりではありますが、マットとカーク兄弟はアメリカ人。シガーロスはアイスランドのグループ名ですので単なる偶然です。

Boy 1904 / ヨンシー
シガーロスのヨンシーとアレックス・ソマーズによるコラボ・アルバム「ライスボーイ・スリープス」(2012) に収録。アレックス・ソマーズについては後述のオリジナル・スコアもご参照ください。

バッハ

ゴルドベルグ変奏曲
長男のボゥドヴァンがキャンプ場で出会った女子を口説く際、切実に語っていたのがグレングールドによるゴルドベルグ変奏曲について。その中から、最も感動的な第30変奏がかかります。(ゴルドベルグ変奏曲のなかで最も憂いある第25変奏もかかるのですが、こちらは何故かカーク・ロス自身が演奏しています。)
グレン・グールドはゴルドベルグ変奏曲を生涯で2回収録していますが(デビュー盤としての1956年盤と、死去1年前の1981年盤、弾くスピードが違いすぎて同じ内容にも関わらずアルバム収録時間が、前者が39分、後者が52分。同じ内容なのに13分も異なる!)、この映画では1981年盤が採用されています。

ゴルドベルグ変奏曲については確かにグレン・グールドが有名ですし、その天才ぶり、カリズマぶりには一目置かざるをえません。が、しかし、他の演奏家による、素晴らしい作品もあります。例えばシフ。個人的に愛聴盤です。

無伴奏チェロ組曲
映画の中でかかるのは第4番変ホ長調 BWV1010。やはり長男のボゥドヴァンが語るヨーヨー・マ(彼も2回録音済み)による演奏で、この映画ではエスペラント語のくだりで挿入されます。

カヴァー曲たち

Sweet child o'mine
母の葬式で家族が唄い踊る曲はガンズ・アンド・ローゼスのカヴァー。この選曲は映画のテーマに通ずる、既成概念を覆すごとき新鮮な驚きです。

 

MY HEART WILL GO ON (LOVE THEME FROM 'TITANIC)
タイタニックのテーマです。大衆、消費の象徴なのかもしれません。この映画ではスーパー・マーケットでカートを押すヴィゴ・モーテンセンのBGMとなります。この後に始まる愉快な出来事のイントロを飾る見事な選曲。もしも二度目にこの映画を観る機会がある方は、このシーンでこの曲が聞こえてくるだけで笑ってしまう事でしょう。

 

I SHALL BE RELEASED
ボブディランの名曲カヴァー。エンドロールでかかるカーク・ロスによる演奏。己の価値観を貫くんだ!という歌詞の内容がこの映画とシンクロしています。

 

オリジナル・スコア盤

注目したいのはアレックス・ソマーズによるオリジナル・スコア盤。(サントラにはシガーロスの曲が収録されていますが、そのシガーロスのヨンシーとアレックス・ソマーズは公私ともにパートナーです)
映画の中でテーマ曲の様に使われている曲「Fortress」はサントラには収録されておらず、こちらに収録されています。映画とはちょっと異なる美意識で、一枚のインストルメンタル・アルバムとして完結しています。優しく、繊細で、憂いを帯びながらも清々しいメロディ、暖かいアンビエントとも言える、くぐもった音世界、音のオブジェ作品です。

マニアには限定の二枚組カラー・アナログ盤も用意されていました。(入手困難)

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