映画「ダンケルク」にヘミングウェイ文学を視る。 / by abou el fida

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MDB 8.0・IN MOVIES 8.0・「ダンケルク」原題:Dunkirk・2017年9月9日日本公開


「ダンケルク」は文学だ。

映画「ダンケルク」は、我々に馴染みのあるクリストファー・ノーランらしい映画ではなく、とても文学的で詩的な映画です。そして、その文学的な感触はまさにヘミングウェイなのです。

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イタロ・カルヴィーノの「なぜ古典を読むのか」という名著(+須賀敦子の名訳)にしっくりくる解説があります。少々長いですが引用しましょう。

「ヘミングウェイの文体はドライで、だらだらと書くようなことは絶無といっていい。彼の場合、誇張はせず、足はしっかりと地面についているし、実際におこったことから遊離することはまずない。中略、

しかし、これらのことはどれも、主人公がそれから逃げたいと思っているなにか、全ては空虚だという感覚、すなわち絶望と敗北と死の感覚にびっしりと取り囲まれている。中略、

「そこではなにも起こらない」のは、短編としていまさら新しいことではない。中略、

だが、ヘミングウェイがなによりも私たちの興味をそそるのは、こうした戦争という現実の証人、大虐殺の告発者としてではない。中略、

行動主義の限界を超えたところで、アクションのなかに、また提示された任務を担いきれるかどうかのなかに人間を認めるというあの方法も、これまた存在を理解するためのひとつの的確で正当な方法であり、中略、

それは、現代における最も乾いた、直裁的で、無駄な装飾もたるみも見せない、最も透徹した現実性を持つ散文となる。」

、、、何も加える説明はありません。ほとんどそのまま映画「ダンケルク」の解説にもなります。

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報道写真のごとき映画。

ダンケルクでは、ハッピーエンドのカタルシスはありません。悪者や、悪者を倒す無敵な主人公が登場する代わりに、我々は報道写真のごとき、赤裸々な人間たちが描かれている映像を鑑賞することになります。

およそ90分という短めの映画(「インターステラー」の2時間49分よりもおよそ1時間も短いのです!)のなかでは、まるでロバート・キャパがLIFE誌の表紙を飾った写真のような、いくつもの象徴的な画像を見ることができます。「ヘミングウェイ的である」ことを言い換えているともいえますが、これこそ、この映画の静かな情熱であり、人間の物語を雄弁に語る、報道写真のごとき深い含蓄の連続体験です。

例えば、映画の冒頭、空から降る紙の中を歩く兵士たち。

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例えば、ダンケルクに向かうミスタードーソン達3人が乗る小舟と、ダンケルクから戻る巨大な戦艦に佇む何百人という兵士たちが、海上ですれ違うシーン。

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例えば、逃げ延びた兵士たちが船倉でジャムパンと紅茶をほうばるシーン。

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例えば、早朝の砂浜を、引き潮で乗り上げた船に向かって早足で進む兵士たち(まるでタルコフスキー)。

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例えば、民間船団がダンケルクに到着するシーン(この映画で最も感動的なシーン)。

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例えば、盲目の老人がトミーの顔に触れるシーン(前の戦争で同じように戦い、盲目になった彼が、勝敗よりも生きて帰れた事の大切さを伝えている)。

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、、、どれも、モノクロ写真にして報道雑誌の表紙を飾りたいほどの絵柄なのです。


あくまでも人間劇場。

登場する人々は、人間的な弱さや、過去の傷を持ちながらも果敢に行動する、或いは、行動せざるを得ない男達です。少し思い出してみましょう。

 

トミー(フィン・ホワイトヘッド)

この映画の主人公ともいえます。まだ幼さも残る若さで体験するダンケルクは、ただ、ただ、生きて脱出するために、走って、泳いで、隠れて、油まみれになりながらもまた泳ぐこと。敵との戦いではなく、また、自分との闘いでさえでもなく、運命に翻弄される、人間という動物の姿です。しかし、清い心と純粋な勇気が導く奇跡は、とても素敵な物語です。

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ギブソン(アナイリン・バーナード)

彼が助からなかった理由は、元々フランス軍の仲間と共に、正々堂々とした努力をすることなく、小回りの利く知恵を使い過ぎたからでしょうか。いい奴なのですが残念。しかしそれも人生。

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アレックス(ハリー・スタイルズ)

決して悪いやつではないし、きっと女性にもモテる、外交的リーダータイプの男の子ですが、生死を分かつ極限状態でのギブソンに対する自分の振る舞いを一生忘れることはできないでしょう。

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ミスター・ドーソンの船の上でのコリンズ(ジャック・ロウデン)とUボートに撃沈された英国兵士(キリアン・マーフィー)

同じ船に助けられた、対照的な二人の兵士。ピンチな時ほどあからさまになってしまう男の行動、男としての在り方の対比を語ります。

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ミスター・ドーソン(マーク・ライアンス)とその次男ピーター(トム・グリン=カーニー)

ジョージの死の感傷を乗り越え、キリアン・マーフィーを最後には許すほどまでに至る精神的成長の物語が趣き深いです。

現代なら反抗期にあたるこの世代の男の子が、悩みつつも父に対する尊敬の念を失わず、父と共に行動したことで大人に成長するという、これまたヘミングウェイ的(なんとなく「海流の中の島々」的)な脚本が憎いです 。

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陸のケネス・ブラナー、海のミスター・ドーソン、そして空のトム・ハーディ。

指針となるべき大人像であり、英雄像である3人。陸、海、空それぞれにこの人たちを配置することで、この映画は安定し、引き締まります。なかでも、再び「マスクの人」となったトム・ハーディはこの映画を観る人へのプレゼントともいえる別格の花形役といえるでしょう。

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しかし、あくまでも娯楽映画。

文学作品であり、報道写真のごとき「ダンケルク」ですが、最終的にはハンス・ジマーとのコンビで、きちんとした娯楽作品として仕上げてしまったところにクリストファー・ノーランの才能(というよりも今回は「職人技」)をみせつけられます。

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最後にもう少し。

最後に再び、イタロ・カルヴィーノ「なぜ古典を読むのか」から引用です。

「事実上、彼(ヘミングウェイ)の作品から漠然と引き出していたのは、人々に開かれた心の寛さ、おこなうべきことは、実践的 ー 倫理的、技術的に ー を以って真摯に取り組む、透明なものの見方、自己礼讃、自己憐憫の拒否、人生の教訓や人間の価値を、なにげなく交わされた言葉や身振りのなかに、いつどこにでもとりいれようとする態度、などであった。」

陸、海、空の英雄3人についての説明にも合致します。簡潔でありながら含蓄ある表現。名作とか傑作という形容詞ではなく、すでにクラシック(古典)なのだと言ってしまいたい作品です。

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「海流のなかの島々 下巻」 アーネスト・ヘミングウェイ(著)、沼澤洽治(訳)
未完の遺作。下巻。読み返し回数は上巻ほどではありませんが、とても大切な内容。
「武器よさらば」 アーネスト・ヘミングウェイ(著)、 高見浩(訳)
カルヴィーノに「彼の最も美しい小説」と言わしめた作品。
「in our time」アーネスト・ヘミングウェイ(著)、柴田元幸(訳)
「唖然とするほどの潔さに貫かれたその文章。余計な装飾はいっさい加えまい、読点一つでも余分に打つまい、という意志が一行一行から感じられる。」訳解説より